ある意味、私の命の恩人である羽生結弦さんについて

平昌五輪スケート会場 羽生結弦さん推し活
ここが平昌五輪フィギュアスケート試合会場です!

いきなり重くて済みません。でも本当の話です。
羽生さんの記事を書いていくために、まず最初にしておく話だと思いました。

羽生結弦選手を知ってからファンになるまで

私は「羽生くん」が中学2年生のころ、彼の存在を認識しました。当時はあまりジュニアクラスの試合を観ていなかったので、注目したのはスケートファンとしては遅いほうです。中性的で可愛らしく、柔軟性もありスピンやジャンプも美しい。こんな子がいるんだ、と目に止まりました。

ジュニアクラスとは、13歳以上19歳まで(シングルの場合)と年齢で決められたクラスです。テレビで放送されるような一般的な試合は、15歳以上でシニアクラスとなっています。フィギュアスケートのシーズンは7月1日から翌年6月30日までですので、年齢も7月1日時点の年齢で区切ります。また、ジュニアの下にノービスクラスもあります。

ジュニアとシニアの年齢幅は、前述のとおり15歳から19歳までかぶっています。成績次第で高校入学と同時にシニアに上がる選手と、19歳ぎりぎりまでジュニアに残る選手がいるのです。本人やコーチの意向もあると思いますが、やはり成績が大きそうです。高成績を上げれば、早くシニアに上がります。

羽生くんは12月生まれなので中学2年でジュニアに上がり、3年のときにはジュニアの試合で国内・海外問わず全勝してしまいました。この成績なら、ジュニアに留まる理由はなかったのでしょう。高校入学と同時にシニアに上がりました。私がファンになったのは、このジュニア最終年です。詳細はまた別記事で……。

がっつりと「沼落ち」した――つまりハマったのはシニア2年目でした。世界選手権に初出場で3位になった、「ニースの奇跡」と呼ばれる演技をしたシーズンですね。
私が「落ちた」のはその前の試合ですが、これも別の記事で詳しく書きます。

羽生選手の活躍と突然の闘病生活

「落ちた」私は、羽生くん見たさにアイスショーや試合を現地観戦するようになりました。生で観るとさらにハマって、発光しているかのように輝いて見えたのです。19歳で初出場したソチ五輪で唯一の金メダリストとなったときはテレビ観戦でしたが、大雪で少し乱れがちな映像に向かって拍手と声援を送りました。仙台で行われた凱旋パレードにも行きましたねえ……。

羽生くんはその後も怪我や病気に見舞われながら、世界最高得点を次々更新する選手になっていきました。2018年の平昌五輪で連覇が期待されていて、本当にすごい選手になったなあと思っていたものです。ソチは無理でしたが、韓国なら行ける。平昌五輪では現地へ行く気マンマンでした。

ところがちょうど五輪の1年前、私は会社で倒れました
原因不明で突然病気になったのです。詳しい病名や症状は省きます。命に関わるものでも、痛みを伴うものでもありません。ただし日常生活に支障のある症状が出ます。働きながら、入退院を繰り返しました。

行きつけの病院ではどうにもならないと家族がいろいろ調べてくれて、同じ症状の人が通って治った病院を受診し、そこで少しずつ症状が治まる治療を受けられることになりました。
ですが、退院してもしばらくしたら悪化してまた入院です。症状が軽くなってきても、完治にはほど遠い状況でした。

平昌五輪のためにパスポートを取得し、チケットもホテルも用意を進めていました。でもこの病気では無理かもしれない。

正直な話、死ぬことを真剣に考えました。入院中の眠れない夜にあまりに辛くなり、「できるだけ迷惑をかけずに自殺する方法」をスマホで検索しまくったことがあります。

当然ながら、どんなに調べても病院は大変なことになるし、家族は立ち直れないかもしれない。
本当に死にたいか。家族に会わずに逝くのか。羽生くんの演技を二度と観られなくてもいいのか。結局死ぬことを諦めて、家族に泣き言をメールして夜を明かしました。翌日、面会時間になった途端来てくれた家族の顔を見て、「やっぱり死ねない」と思いながら泣きましたね。

いい年をして、随分と親不幸なことをしたものです。

羽生選手の怪我

生きるにしても前向きになれないまま秋になり、フィギュアスケートの本格的なシーズンが始まりました。
もし観に行けなくても、羽生くんが五輪連覇をしてくれたら。そんな願いを打ち砕くような出来事が起こります。

2017年11月、試合前の練習時に羽生くんが大怪我を負ったのです。五輪の約3ヶ月前でした。
「右足関節外側靱帯損傷」。右足はジャンプの着氷に使う足ですので、傷めやすく無理もできません。このあと、羽生くんは全日本選手権も欠場しました。

羽生くんはいませんでしたが、試合後の五輪代表発表を確認したくて全日本観戦をしました。家から通える会場だったのが、不幸中の幸いです。ほかの選手も応援していましたが、どこか心は虚ろでした。

本来同シーズンの全日本選手権に出ていないと、五輪代表には選ばれません。

  • 過去に世界選手権で結果を出している
  • 世界ランキング上位である

上記の条件に当てはまると、選考対象となります。シーズン最初に日本スケート連盟が発表している選考基準には、もっと詳しく書かれています。羽生くんは世界選手権で優勝経験があり、当時世界ランキング1位でした。五輪には回復が間に合うと判断され、代表に選ばれたのです。

驚きはしませんでした。ああ、やっぱり選ばれた。前回の金メダリストで今回も連覇するかもしれないと怪我前には言われていたのですから、当たり前でした。

けれど回復が間に合うというのは、本当なのでしょうか……。

平昌五輪男子フィギュアスケート観戦へ

私の病状は一進一退でした。年が明けても入退院をしている状態です。
一緒に行く約束をしていた友人がいなければ、おそらく諦めていたでしょう。家族にも反対されることを覚悟の上でした。

「どうしても行きたいんです」と主治医に相談したところ、「大丈夫じゃない? 韓国なら近いし、同行者もいるなら」と許可が出ました。か、軽いな?と戸惑いつつ母にも話したら、「先生がいいって言ってて、あなたが行きたいなら行ってらっしゃい」と賛成してくれたのです。

あとで聞いた話によると、母は「娘(私)になにかあったら後悔するんじゃないか」と言われていたそうです。母は「本人が決めたことで、本人の人生だから」と答えたと。子煩悩な母が不安な顔も見せずに私を行かせてくれたことを、今も深く感謝しています。

さて行けることにはなったものの、入手したチケットはリンクから遠く、あまり良い席ではありませんでした。ですが、直前になって関係者から流れたものか、前から10列以内の良席のチケットが売られていたのです。近くにくれば、選手の顔もよく見える席です。

しかしお値段はかなりする。どうしたものかと迷っていると、「それは買い一択!」と家族に言い切られました。なぜ家族のほうが思いきりがいいのか。私の「行きたい」気持ちの強さがわかっていたからでしょうね。「一生に一度なんだから」と言われたら、ポチるしかありません。

全ての準備は整いました。
2018年2月15日、男子ショートプログラムの前日。私は友人とともに、韓国へ旅立ちました。

衝撃のショートプログラム

フィギュアスケート男子シングルは、ショートプログラム・フリースケーティングで競われます。
ショートプログラム上位24位内に入ると、翌日のフリースケーティングに進めます。

現地観戦しているとインタビューの情報が追いにくく、まして海外では新聞やテレビも頼れません。スマホで日本の報道をチェックします。羽生くんは、公式練習であまりジャンプを跳んでいないようでした。無理をさせず、本番に集中させるためでしょうか。
私の体調は緊張のせいか、意外と落ち着いていました。ただ、前夜はなかなか寝つけませんでしたね。

練習でジャンプを抑えているのだから、羽生くんの怪我は完治していないはず。怪我した日から、たった3ヶ月しか経っていません。試合勘も鈍っているでしょう。いくらでもネガティブな条件は揃っています。それでも彼は言ったのです。

「誰が獲っても、僕も獲ります」(金メダルについて)

当時、110点を超える点数をショートで出せるのは羽生くんだけでした。100点超えをする選手はいましたし、フリーではジャンプの回数などのプログラム構成要素が多いので、10点20点差をひっくり返すことも可能です。でもだからこそ、「ショートでノーミス→トップ通過確定」としておけばメンタル的にも大きいだろう、と思っていました。問題はノーミスできるのか。

前述の買い直した良席はフリーの日のチケットです。ショートの席は上方で、私はリンクをずっと下に見下ろしていました。選手の表情は見えませんが、リンクの上に設置されているモニターのおかげでアップになった表情も見えます。実は演技全体を観るには、多少離れているほうがいいのです。

最初の選手から応援していましたが、なんだか皆さん調子がよくありません。氷が合わないのか、「五輪の魔物」と呼ばれる緊張のためか。こうなると余計怖い。いい演技も悪い演技も、意外と続くものなんです。

ランキング上位選手の滑走順はあとのほうになりますので、羽生くんは最終グループです。グループ内の順位は抽選で、羽生くんは全体の25番目、最終グループの最初の演技者でした。グループ全体での6分間練習のあと、すぐになります。

練習中ジャンプの回数は少なめでしたが、跳んだ4回転はきれいなもので、拍手と歓声が起こります。
羽生くんにとって、かなり滑り込んで得意なプログラムである「バラード第1番ト短調」。無神論者のくせに、こんなときだけ「神様、スケートの神様。あなたがいるなら羽生くんをお守りください」と祈ってしまいます。

大丈夫かな。いけるよね。
両手を握りしめて見守っていました。そして……

最初の4回転サルコウを美しく降り、後半の3回転半(トリプルアクセル)も文句なし。最後の4回転トゥループ+3回転トゥループは3回転で両手を挙げて加点を稼ぐスピンもステップも、なにひとつ揺らぎませんでした。
なんという神演技。これが3ヶ月前に大怪我をした人なのか!?
会場内は大歓声に包まれていましたが、モニターに映る羽生くんは「よし、できた」とばかりに不敵で冷静な笑みをうかべていました。

点数は111.68! パーソナルベスト(羽生くん個人が試合で出したベストの点数)には及びませんが、滑走者を5人残してトップを確信できました。

2位は羽生くんと同じクラブで練習しているチームメイトのハビエル・フェルナンデス。3位は日本の宇野昌磨くんです!
同行者とはチケットをバラバラに取りましたので、試合終了後に会場外で待ち合わせていました。お互いに顔を合わせた瞬間「やった、やった!!」と飛びつくように喜び合いましたね。もう大興奮でした。

試合後、羽生くんがインタビューで名言を残していたのを知ったのは少しあとのことです。

僕はオリンピックを知っていますし、元オリンピックチャンピオンなので」

い、言えるのかそんなこと。五輪に2回連続出場するのは珍しくありませんが、毎年少しずつルールが変わって五輪後には大きなルール改正があるのがフィギュアスケートです。ソチ五輪で銀・銅メダルを獲った選手は、ショート終了時に24位内に入れなかったり、羽生くんと20点差を付けられたりしていました。羽生くんだけが、トップであり続けたのです。
言葉だけの人ではないと、羽生くんはこの4年間で証明していました。

嬉しくて怖くて、でも夢が叶う気がして、その日もやっぱりよく眠れませんでした……。

歓喜のフリースケーティング

迎えたフリーは、演技を観る正面(テレビカメラがメインに撮るジャッジが並んでいるロングサイド)から向かって右側のショートサイドでした。前から6列か7列目だったと思います。
あ、この席。私が長野で「羽生くんが史上初めて300点超えをした演技」を観た席と近い。

運命を信じているわけではないのですが、なにか、とてもすごいことが起きるような。それを再び観てしまうような。そんな予感がありました。

羽生くんの演技は22番目。次がハビエル・フェルナンデス、最後が宇野昌磨くんでした。今回は6分間練習後、しばらくバックヤードに下がって準備している羽生くんの様子はわかりません。
羽生くんのプログラムは「SEIMEI」。今となっては名前だけで「ああ、あの陰陽師の」とプログラムを連想できる人も多いでしょう。私が初めて観たのはアイスショーでのお披露目のときでした。狩衣をモチーフにした衣装で、「和風プロは評価されない」と言われるフィギュアスケートで金メダリストが挑戦し、見事に世界最高得点を更新した伝説のプログラムです。

羽生くんの呼吸音から始まる音楽。少し滑って最初の4回転サルコウ、美しい! 続けて4回転トゥループも軽やか! いつもの羽生くんらしい、優雅な滑りで3回転フリップまで見事に決めていきます。が、続くスピンの構成が簡単な姿勢のものに変わっていました。やはり怪我の影響か……本来なら4回転ループも跳べるのに、得意なサルコウとトゥループで構成してきているものな。

ステップでは手拍子も起こります。危うさは感じません。少し止まってから滑り出し、後半のジャンプ。直前の振り付けが変わっていて、最初のサルコウ前と同じになっていました。ああ、タイミングを取りやすいようにしているのか?
4回転サルコウからの3回転トゥループ! コンボも決めました!! 次は4回転トゥループからのコンボ……ああ、着氷が乱れてしまい、3連続ジャンプの予定が単発ジャンプになります。これはそれなりに痛い。けれど続くトリプルアクセルを2連続コンボから3連続へと変更し、リカバリーします(変更したことにより、点数が本来の2連続より上がります)! 3回転ループを決め、一番最後は乱れることも少なくない3回転ルッツ……つんのめるような着氷ですが、手も着かずステップアウトで堪えました!!
ジャンプの大きなミスをひとつに抑え、大きく加点のつくジャンプを大技で決めてきました。

勝った。勝ったね、羽生くん。

この時点で、私はもう連覇をほとんど確信していました。ショートの点差は数点でしたが、残る2人が完璧に滑っても届くほどの低い点にはならないはずだと。
目の前でスピン後に立ち上がり、「ダン、ダン!」という音に合わせて腕を広げます。ここからはコレオシークエンスという自由に滑る要素です。リンクの中央へ遠ざかる後ろ姿、ちらりと見えた笑顔、羽生くん、これはウイニングランなんだね。大歓声に包まれて滑る姿を見ながら、会場中の観客とともに止まらない拍手をラストのスピンまで続けていました。

フィニッシュを決めた直後に羽生くんは右手を挙げて、笑顔で周囲を滑りました。「勝ったー!」と叫んでいたように見えます。「やったー」だったかもしれません。
膝を着いてリンクに感謝しているような姿があり、怪我との戦い、自分との戦いに勝ったのだろうと思いました。

迎えるコーチのもとへ戻るときも、人差し指で天を差すように右手をげていましたね。

モニターでのリプレイを眺めつつ、私はもう泣いていたと思います。いつから泣いていたか覚えていません。出た点数は206.17、ショートとの合計は317.85!! ここまでの点数が出せる選手は羽生くん以外ほぼいません。

このあとハビエルも昌磨くんも、いい演技をしていました。でも点数的には小さくないミスがあった。パーソナルベストに近い点数を出さなければならないのに、これでは羽生くんには届きません。

昌磨くんの点数が出て総合2位で銀メダル、羽生くんの金メダルが確定したとき、モニターに暫定1位から3位の選手が待つ部屋が映ります。
金メダリストとしてアップになった羽生くんはサムズアップした手を振りながら、泣いていました。こっちは大号泣です。

あなたを知って、応援できてよかった。ここに来られてよかった。生きていてよかった。
この日を一生忘れない。

周囲からは嬉し泣きには見えなかっただろうほどに声をあげて、私は泣きました。

ずっと応援したいから生きていく

メダル授与は後日で、競技後はマスコットと花束を渡すセレモニーのみです。
終わってみれば日本選手史上初のワンツーフィニッシュ。素晴らしい試合でした。日の丸を掲げる羽生くんと昌磨くんの姿も撮りましたが、一番最後に撮ったのはリンクから上がる前に、深々とお辞儀をする羽生くんの姿です。スマホの性能上解像度は残念ですが、けっこう近かったので肉眼でははっきり見えていました。

五輪連覇を遂げた羽生くんは、現役選手を引退すると思っていました。喘息持ちで怪我も多い羽生くんでは、これ以上体がもたないと思ったからです。

ところが北京五輪まで競技を続け、プロに転向したあとはたったひとりのキャストでアイスショーを開催するという斜め上を空高く成層圏の彼方までかっ飛んで行くことをなさっているのですが。

羽生くんがいる世界で、彼が新しいものを次々に見せてくれている。
もったいなくて、死ねない。

彼は間違いなく、私を救ってくれました。生きる希望を与えてくれました。

私は帰国後も入院しましたが、その後完治の診断を受けました。
しかし2年ほど経ってから、症状が再発してしまいました。病気の再発ではなく、体が覚えてしまった発作が「ストレスがかかったとき」「気圧の変化があるとき」に出るようになったのです。以前よりは、ずっと軽いです。ただし、完治するかはわかりません。しんどいものです。

それでもあの五輪の幸せな記憶が、私を生かしてくれています。

私は彼の幸せと幸運を願いながら、これからも羽生くん……羽生結弦さんを、応援し続けます。
羽生さんと同じ国、同じ時代に生まれて応援できたことが本当に幸せです。

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